NOV. 2019
前回「Sensory Experience Design 発見の再発見」というタイトルで、阿部雅世さんが主催するデッサウのバウハウスでのワークショップに参加し、そこでの経験から強く印象に残った発見の喜びついて記事を書いた。前の記事を書いてから、もうすぐ一年が経つという体たらくではあるが、いよいよ重い腰をあげて、もう一度、当時考えていたことを文字にしてみたいと思う。
発見ということを、ぼんやりと頭の片隅において過ごしていていたときに出会ったのが、映画化もされてご存知の方も多い『日日是好日』という森下典子の著書だ。『日日是好日』は、著者が茶道とともに過ごした人生を綴ったもので、副題に「『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」とあるように生きていく上で大切なことが、著者の経験にもとづいて静かに書き記されている。当時、発見について考えをめぐらせていたこともあって、特に響いてきたのはこんな一節だった。
茶道はさまざまな決まり事や型の集合体である。なぜ決まりに従い、型どおりにやらなければならないのか、著者はその理由を長年の稽古のなかで何度か先生に尋ねていた。そして、その度に先生からは「理由なんていいの。」と言われ続け、茶道というものが捉えきれずにいた。それがある時、その意味がふとわかるという瞬間が訪れる……。
「本当に知るには、時間がかかる。けれど、『あっ、そうか!』とわかった瞬間、それは、私の血や肉になった。
もし、初めから先生が全部説明してくれたら、私は長いプロセスの末に、ある日、自分の答えを手にすることはなかった。先生は『余白』を残してくれたのだ……。
『もし私だったら、心の気づきの楽しさを、生徒にすべて教える』……それは、自分が満足するために、相手の発見の歓びを奪うことだった。」
人から教わるのではなく、自分できづくこと、発見することは、やや大げさな表現になるが、生きていくなかで特別な意味をもっているのではないかと考えている。体験や経験が大切だということをよもや否定する人はいないと思うが、その理由がここにあるのではないか、と。誰かが発見したモノやコトを情報として理解することは、たとえそれが偉大な発見でもどこか平板である。それに対して自らの発見には、寺田寅彦が言っているような「発見の鋭い喜び」がある。体験のなかの出来事は、自分の知覚や身体から発して、心の中をとおることで情緒と一緒に脳で処理される。だからこそ、脳に情報として蓄積されるだけでなく血や肉となるのだろう。
未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性を「センス・オブ・ワンダー」と呼んだレイチェル・カーソンも著書で同じことを言っている。
「事実が知識や知恵をのちに生み出す種であるならば、知覚から生まれる感動はその種が育つための豊かな土壌である」
新しいものや未知なものが心を動かし、そのあとに知識や知恵が育つ土壌となる。『日日是好日』が長年の経験の末に訪れた気づきであるとすると、レイチェル・カーソンの引用は、知覚にもとづく好奇心を掻き立てるような「発見の鋭い喜び」だ。どちらも、その人の血や肉なり、知恵や知識の豊かな土壌となるものである。
話題が少しズレるが、「探す」ということについて、前述のワークショップを主催した阿部雅世さんが、おもしろいことを話していた。
「さあ、でかける、というときに限って、鍵が見当たらない。これを急いでさがさねばならないとなると、普段気にも留めないところにまで、焦点をあてまくることになります。『こんなところには、ぜったいないよな』という場所も、開けて中を見たりする。そして、そんなことをしているうちに、鍵ではないんだけれど、どこにしまったかなあ、とずっと思っていた、はさみを発見したりする。こんなところにあったかと。そして、鍵は、たいていの場合、ありえないところで、発見されたりします。眼鏡ケースの中とか。でも、ここで大切なのは、鍵を見つけたということではなくて、鍵を探す、という行為によって、久しぶりに、家の中を隅々まで知覚した、ということかもしれません。」(「SENSORY EXPERIENCE DESIGN 感覚を鍛え、感性を磨くーデジタル時代の生涯教育」より)
何かを探しているときに昔の探し物を偶然見つけてしまうということは本当に「あるある」だけれど、このエピソードの大切なところは、探すということは単純に目当てのものを見つけるということ以上の行為であることを伝えているところだ。自分自身が参加したデッサウでのワークショップでは、バウハウス建築のなかを長い時間をかけて丸と三角と四角を探したり、どのようなテクスチャーがあるのか、皮膚感覚を研ぎ澄ませて、床、壁、手すり、扉などいろいろなものを触りまくった。そのおかげで、今でもバウハウスがどのような空間であったか、どんなディテイルを持っていたかを鮮明に思い出すことができる。ひんやりとした冷たい感触や微細なパターンを持つテクスチャー。そういった感覚記憶の断片が束ねてできあがる空間の「像」は、普段の空間の記憶とは比べ物にならない密度を持っている。何かをみつけようとつぶさに見るということは、日常的に世界を認識している仕方とはだいぶ異なる位相で世界を脳に残していく。たとえそこに世紀の大発見がなかったとしても、自分の感覚をとおして、このような空間の像が獲得できたということは、今後の空間の理解の仕方を変化させ、それだけでも大きな価値があるに違いない。たとえ大きな発見にはいたらなくとも自ら探索するということは、なにかこう、物事の理解の位相を変化させ、脳に蓄えられた記憶というか知識の「質」を変えるところがあるように思うのだ……。
ここまで、体験から発見するということは、血や肉となりその人を形作るものになるということ、そして、発見がなくとも物事をつぶさにみて探索するということは理解の仕方を変えるということを述べてきた。最後に発見についてもう1つ考えておきたいことがある。それは、作り手としての考え方や、使い手としての物事への向き合い方だ。
これまで述べてきたとおり、発見やきづきのある体験は素晴らしいもので、プロダクトやサービスを提供する側としては、そんな機会や体験を作り出せることにチャレンジしたいし、利用者側としてもそのような体験ができることは理想的なハズである。その一方で、なかなかこの理想は実現しない。実際に世の中で、もてはやされるのは、「わかりやすくて即効性があること」だ。時間をかけて探索し、その上で何か発見があったり、きづきがあるというのものは、なかなか世の中では受け入れられない。現代人はとてつもなく忙しいのだ。そのために、自分で発見することや、きづくことなく、誰かの知識や知恵を自分の能力水準と知識の範囲で理解できるものを選択していく。それが効率よく生きるという生き方なのだ。しかし、この考え方が行きすぎると、知識が水平方向に広がることはあっても、知性が垂直方向にのびていくことがなくなってしまうのではないか。環境との薄っぺらな関係性のなかには、なかなか「鋭い歓び」が生じることはなくなるのではないだろうか。そういうものを奪ってはいけないし、奪われてはいけない。そんな危惧を抱いている。
分からないけれど魅力があるものや、きづきや発見の余白を残したデザインは、いかにすれば可能なのか、次はそんなことが気になり出している……。
発見ということを、ぼんやりと頭の片隅において過ごしていていたときに出会ったのが、映画化もされてご存知の方も多い『日日是好日』という森下典子の著書だ。『日日是好日』は、著者が茶道とともに過ごした人生を綴ったもので、副題に「『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」とあるように生きていく上で大切なことが、著者の経験にもとづいて静かに書き記されている。当時、発見について考えをめぐらせていたこともあって、特に響いてきたのはこんな一節だった。
茶道はさまざまな決まり事や型の集合体である。なぜ決まりに従い、型どおりにやらなければならないのか、著者はその理由を長年の稽古のなかで何度か先生に尋ねていた。そして、その度に先生からは「理由なんていいの。」と言われ続け、茶道というものが捉えきれずにいた。それがある時、その意味がふとわかるという瞬間が訪れる……。
「本当に知るには、時間がかかる。けれど、『あっ、そうか!』とわかった瞬間、それは、私の血や肉になった。
もし、初めから先生が全部説明してくれたら、私は長いプロセスの末に、ある日、自分の答えを手にすることはなかった。先生は『余白』を残してくれたのだ……。
『もし私だったら、心の気づきの楽しさを、生徒にすべて教える』……それは、自分が満足するために、相手の発見の歓びを奪うことだった。」
人から教わるのではなく、自分できづくこと、発見することは、やや大げさな表現になるが、生きていくなかで特別な意味をもっているのではないかと考えている。体験や経験が大切だということをよもや否定する人はいないと思うが、その理由がここにあるのではないか、と。誰かが発見したモノやコトを情報として理解することは、たとえそれが偉大な発見でもどこか平板である。それに対して自らの発見には、寺田寅彦が言っているような「発見の鋭い喜び」がある。体験のなかの出来事は、自分の知覚や身体から発して、心の中をとおることで情緒と一緒に脳で処理される。だからこそ、脳に情報として蓄積されるだけでなく血や肉となるのだろう。
未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性を「センス・オブ・ワンダー」と呼んだレイチェル・カーソンも著書で同じことを言っている。
「事実が知識や知恵をのちに生み出す種であるならば、知覚から生まれる感動はその種が育つための豊かな土壌である」
新しいものや未知なものが心を動かし、そのあとに知識や知恵が育つ土壌となる。『日日是好日』が長年の経験の末に訪れた気づきであるとすると、レイチェル・カーソンの引用は、知覚にもとづく好奇心を掻き立てるような「発見の鋭い喜び」だ。どちらも、その人の血や肉なり、知恵や知識の豊かな土壌となるものである。
話題が少しズレるが、「探す」ということについて、前述のワークショップを主催した阿部雅世さんが、おもしろいことを話していた。
「さあ、でかける、というときに限って、鍵が見当たらない。これを急いでさがさねばならないとなると、普段気にも留めないところにまで、焦点をあてまくることになります。『こんなところには、ぜったいないよな』という場所も、開けて中を見たりする。そして、そんなことをしているうちに、鍵ではないんだけれど、どこにしまったかなあ、とずっと思っていた、はさみを発見したりする。こんなところにあったかと。そして、鍵は、たいていの場合、ありえないところで、発見されたりします。眼鏡ケースの中とか。でも、ここで大切なのは、鍵を見つけたということではなくて、鍵を探す、という行為によって、久しぶりに、家の中を隅々まで知覚した、ということかもしれません。」(「SENSORY EXPERIENCE DESIGN 感覚を鍛え、感性を磨くーデジタル時代の生涯教育」より)
何かを探しているときに昔の探し物を偶然見つけてしまうということは本当に「あるある」だけれど、このエピソードの大切なところは、探すということは単純に目当てのものを見つけるということ以上の行為であることを伝えているところだ。自分自身が参加したデッサウでのワークショップでは、バウハウス建築のなかを長い時間をかけて丸と三角と四角を探したり、どのようなテクスチャーがあるのか、皮膚感覚を研ぎ澄ませて、床、壁、手すり、扉などいろいろなものを触りまくった。そのおかげで、今でもバウハウスがどのような空間であったか、どんなディテイルを持っていたかを鮮明に思い出すことができる。ひんやりとした冷たい感触や微細なパターンを持つテクスチャー。そういった感覚記憶の断片が束ねてできあがる空間の「像」は、普段の空間の記憶とは比べ物にならない密度を持っている。何かをみつけようとつぶさに見るということは、日常的に世界を認識している仕方とはだいぶ異なる位相で世界を脳に残していく。たとえそこに世紀の大発見がなかったとしても、自分の感覚をとおして、このような空間の像が獲得できたということは、今後の空間の理解の仕方を変化させ、それだけでも大きな価値があるに違いない。たとえ大きな発見にはいたらなくとも自ら探索するということは、なにかこう、物事の理解の位相を変化させ、脳に蓄えられた記憶というか知識の「質」を変えるところがあるように思うのだ……。
ここまで、体験から発見するということは、血や肉となりその人を形作るものになるということ、そして、発見がなくとも物事をつぶさにみて探索するということは理解の仕方を変えるということを述べてきた。最後に発見についてもう1つ考えておきたいことがある。それは、作り手としての考え方や、使い手としての物事への向き合い方だ。
これまで述べてきたとおり、発見やきづきのある体験は素晴らしいもので、プロダクトやサービスを提供する側としては、そんな機会や体験を作り出せることにチャレンジしたいし、利用者側としてもそのような体験ができることは理想的なハズである。その一方で、なかなかこの理想は実現しない。実際に世の中で、もてはやされるのは、「わかりやすくて即効性があること」だ。時間をかけて探索し、その上で何か発見があったり、きづきがあるというのものは、なかなか世の中では受け入れられない。現代人はとてつもなく忙しいのだ。そのために、自分で発見することや、きづくことなく、誰かの知識や知恵を自分の能力水準と知識の範囲で理解できるものを選択していく。それが効率よく生きるという生き方なのだ。しかし、この考え方が行きすぎると、知識が水平方向に広がることはあっても、知性が垂直方向にのびていくことがなくなってしまうのではないか。環境との薄っぺらな関係性のなかには、なかなか「鋭い歓び」が生じることはなくなるのではないだろうか。そういうものを奪ってはいけないし、奪われてはいけない。そんな危惧を抱いている。
分からないけれど魅力があるものや、きづきや発見の余白を残したデザインは、いかにすれば可能なのか、次はそんなことが気になり出している……。