(ほぼ)なんでも作るワークショップ!(ただし紙で)

デザインハブで行われるFabLab Japanのワークショップのご案内です。先ほどのエントリーのCraftRoboを使い、「(ほぼ)なんでも作る」というものです。

受付はこちらのページか ら。

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概要:
だれもが自分の好きなように好きなものを作れる環境とコミュニケーションづくりをめざすFabLab Japan(ファブラボ・ジャパン)。自由自在に紙を切り抜くことができる簡単・安全な家庭用工作機械「クラフトロボ」を使って参加者のリクエストにお応 えし、紙であればなんでも作ります。

日時:
2010年8月12日(木)10:00〜12:00/14:00〜16:00 [2回開催]

定員:20名
対象年齢:小学校4〜6年生
※親子参加も可能/小学校1〜3年生の方も親同伴なら参加可能
参加料:1人300円(当日会場にてお支払いください)
実施主体:Fablab Japan(ファブラボ・ジャパン)
協力:グラフテック株式会社

受付はこちらのページから。

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CraftRobo

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最近、盛り上がりつつあるCraftRoboではじめるパーソナル・ファブリケーション。少し前まで、私自身も高価な機材でなければ本物でないと思っていたのですが、安価で入手しやすく様々なトライアルができるということで、CraftRoboはとても面白いです。

CraftRobo関連で気になるものをいくつか、まとめてみます。

ペパクラデザイナー

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ペパクラデザイナーは3Dデータからペーパークラフト用の展開図を簡単に作成できるソフトウェアです。CraftRoboへの出力に対応しています。

(via @kotobuki)

>>メーカーサイト

SketchChair

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Processingベースのイスをスケッチするためのソフトウェア。簡単なベジェ曲線の操作から切り出すパーツ図面を作ってくれます。最終的にはCNCルーターやレーザーカッターでイスのパーツを切り出しますが、その前のCraftRoboを使った紙によるプロトタイプの段階だけでも面白そうです。

source : Make:

Modular Kirigami

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単純なモジュールを組み合わせて興味深いフォルムつくる試み。このPDFを利用すれば、CrraftRoboから出力することができると思います。(もっと簡単なもので、カエデやラワンなど飛ぶ種子を模したこれも面白いです。)

source : Make:

Paper Circuitry

IAMAS近藤さんの導電性インクと紙を使ったインタラクティブな作品。導電性のインクなどの存在を考えると今後この方向のインタラクションはとても面白くなるかもしれないですね。

(via:@t_kondo)

source: Fashioning Technology

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世界観が変わるかもしれない言葉の話

今回は言語の起原から文字まで気になる洞察をいくつか紹介してみたいと思います。インタラクションとの直接の関係はないかもしれませんが、相互のやりとりという観点からはなにからしらの示唆があるものとも思います。

ブーバ・キキ効果

これまで、言語の音と視覚的印象に関して、その関係は恣意的(任意、無作為)で文化・言語の枠を超えた法則はないとされてきた。例えば、「イヌ」という音は、イヌの視覚的な像とはなんの関係もない。これに対し、聴覚表象と視覚表象とのあいだに、非恣意的な関係があらかじめ存在していたのではないということを示唆しているのが、ブーバ・キキ効果だ。

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上の2つの図のうち、どちらが「ブーバ」で、どちらが「キキ」かという問いに対して、母国語や文化に関係なく95〜98%の人は、染みのような左の図形が「ブーバ」で、ギザギザの右の図形を「キキ」だと答える。聴覚表象と視覚表象の関係はまったく恣意的な訳ではないようだ。

幻肢研究で有名な神経科学者ラマチャンドランは、ブーバ・キキ効果にみられるような、非恣意的な関係が、視覚と発声の間にもあることを著書『脳のなかの幽霊、ふたたび』のなかで指摘している。

「小さい」「少し」を意味する「teeny(ティーニー) weeny(ウィーニー)」「un(アン) peu(プ)」「diminutive(ディミニュティブ)」という言葉を言ってみてください。次は、「大きい」意味する「enourmous(イナーマス)」、「large(ラージ)」といった言葉を言ってみてください。そして唇の動きを見てください。唇は、あなたが言っているものの視覚的外形を物理的にまねています。

ラマチャンドランは、さらにもうひとつ、手の運動と口の運動にも脳内では共感覚的な翻訳(共同運動)があると言う。

ダーウィンは、人がはさみでものを切るときに、あたかも指の動きをそっくりそのまま繰り返しているかのように、あるいはまねているかのように、無意識に歯を食いしばったりゆるめたりすることに気がつきました。

視覚と聴覚の共感覚的翻訳(ブーバ・キキ効果)、聴覚と口の運動に関する翻訳(teenyなど)、手と口に関する運動から運動への翻訳(共同運動)、この3つのよって原型的な言語が創出されたという説をラマチャンドランは唱えてる。もう少し分かりやすく言うと、言葉は共感覚や共同運動といった、聴覚や発声と視覚や手の運動感覚との脳内の混線=翻訳から生まれてきたのではないか、ということである。
言葉が生まれる過程では、お互いの発話内容を理解するための規則、例えば発音された「イヌ」が実際のイヌを指し示すような規則が必要となる。手にした書籍にはこれ以上の詳細な説明が無かったため、ここからは、私の推測になるが、人が言語を持つ以前は、お互いに意志を疎通しようとして何度となく身振りや発声を繰り返しお互いに何事かを伝えようとしていた。その繰り返しの中で共有可能な規則が言葉として定着し、そうでないものは捨て去られる。何を規則として定着させ、何を捨て去るかを決定していったものこそが、人に予め備わっていた感覚を翻訳する能力であったのではないかと思う。


ニカラグア手話

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次に紹介するニカラグア手話は、上に述べたような原初的な言語から、言語が洗練された体系を持つに到った過程を示す事例である。

ニカラグア手話は、1970年代末から80年代にかけてニカラグア共和国の学校で聴覚障害児によって創出された自然発生的な手話で、世界で最も新しく誕生した言語とされ、 また、歴史上はじめて学者たちによって誕生の瞬間が目撃された言語であるとされる、極めて特殊、且つ重要な事例と言われている。
ニカラグアではサンディニスタ革命以前、聴覚障害児は社会から疎外され、身内にしか通じない「自家製」のサイン体系を使って友人や家族とコミュニケーションを行うだけだった。サンディニスタ革命が起こり、聴覚障害児の特別教育施設が設けられると、首都マナグアの2つの学校に数百人の聴覚障害児が顔をあわせるようになった。新設された特別教育施設では、スペイン語を用いた指文字と読唇術による教育手法を採用していたが、 単語という概念を持たなかった彼らのコミュニケーション生成に全く影響を与えず、スペイン語教育はあまり成果を収めなかった。この状況下で、子供達はそれぞれの「自家製」のサインを組み合わせながら、「ピジン語(混成語)」のような共通のサインを発達させていった。教育にあたっていた大人達には、子供達がどのように意志を疎通しあっているのか、全く分からなかったそうだ。

それまで、散逸していたものが集まり、コミュニティとなった時に思いがけない発展が起きる。しかも、10年という短い期間で。これは驚嘆すべき事実ではないだろうか。

an original group of home signers came up with an elemental pidgin among themselves, known to linguists as Lenguaje de Signos Nicaragense.This was the comparatively crude signing among the older students. Then, very young children of 5 or 6 had come into the school system. Quickly mastering the pidgin from their elder peers, they had then taken it, quite unconsciously, to a far higher level.

年長の学生が使っていたピジン語を覚え、ニュアンスに富み、組織だった「言語」へと発展させたのは、新しく入学したばかりの5、6歳の若い世代だった。5、6歳と言えば、ちょうどすべての文法を獲得する時期と言われている。文法を獲得する能力とは、文法を生成する能力と表裏なのだろうか…。年少者が発展させたニカラグア手話は、現在ニカラグアの公用語として認められている。

“I can remember my childhood,” he signs, “but I can also remember not having any way to communicate. Then, my mind was just a blank.”

これは、マナグアで15才から手話を学んだある青年の言葉だ。言葉は他者に対するのコミュニケーションの手段であると同時に、思考をつかさどるものである、ということが人生の一部として語られている。私たちは、考えたことを伝えるために言語を持つに到ったのだろうか、それとも、伝える手段を持つことによって伝える内容を生みだしたのだろうか…。その答えは、コミュニケーション手段と思考とは相互に依存した関係にあるということのようだ。その関係を次に見てみたい。

声の文化と文字の文化

私たちは、文章を書くということを日常的に行い、書くということを深く内面化しているために、書くということで意識や思考が変わったということを想像することは難いが、W.J.オングの著書『声の文化と文字の文化』のなかでは、2つの文化における驚くべき「心性(メンタリティ)」の相違が丁寧に解説されている。

そもそも深く考えるということのスタイルや意味が、文字のない世界では大きく異なる。

そこ(深い思索)には、話の相手が、ほとんど必須である。なぜなら、たてつづけに何時間もひとりごとを言い続けるのは難しいからである。声の文化においては、長くつづく思考は、つねに人とのコミュニケーションと結びついている。

また、深い思索を行ったとしても、もう一度同じ思考の流れを再現したり、きちんと前回の思考過程が再現できているかどうかを検証するための道具が無いのだ。思考過程を再現するテクストが存在しないために、「記憶できる」事でなければ思索も意味を持たなかった。

一次的な声の文化では、よく考えて言い表された思考を記憶にとどめ、それを再現するという問題を効果的に解くためには、すぐに口に出るように作られた記憶 しやすい型にもとづいた思考をしなければならない。このような思考は、つぎのようなしかたで口に出されなければならない。すなわち、強いリズムがあって均衡がとれている型にしたがったり、反復とか対句を用いたり、頭韻や母音韻をふんだり、形容詞を冠したり、その他の決まり文句的な表現を用いたり、紋切り型 のテーマ(集会、食事、決闘、英雄の助太刀、など)ごとにきまっている話しかたにしたがったり、だれもがたえず耳にしているために難なく思い出せ、それ自体も、記憶しやすく、思いだしやすいように型にはまっていることわざを援用したり、あるいは、その他の記憶をたすける形式にしたがったりすることである。 まじめな思考も、記憶のシステムと織り合わされている。記憶を助けるという必要が、統語法さえも決定するのである。

オングはこの他にもいくつかの研究を引きながら、2つの文化の違いを明らかにしているが、なかでも読み書き能力がない者の思考が状況依存的で抽象度が低い認識を行うとする事例は興味深い。

読み書きができない被験者たちは、幾何学的な図形を識別するのに、それぞれの図形に現実の諸対象の名前を当てはめることによってし、けっして抽象的に、円、四角形等としては識別しなかった。円は、皿、ふるい、バケツ、時計、月などと呼ばれ、四角形は、鏡、ドア、家、アンズ乾燥板などと呼ばれた。

「声の文化と文字の文化」ではこの後、手書き文字の文化と印刷が与えた影響についての研究が続くが、その主題は文化の優劣ではなく、「どんな発明にもまして、書くことは、人間の意識をつくりかえ」、「われわれは、人間とはこういうものだ、として了解してきたことがらを考え直さざるを得なくなった」ということにある。

今回のエントリーは、言語の非恣意性や、コミュニティによる言語形成の実態、書くことによる心的構造の変化という3つのトピックは、言語の発声プロセスを時系列に追うものであるという、無邪気な発見から始まっている。3つのトピックを総括する結論めいたものはないが、言葉に関しては、「われわれは、人間とはこういうものだ、として了解してきたことがらを考え直さざるを得なくな」るような興味深い不思議にまだまだ出会うことが可能なようだ…


参考情報:
『脳のなかの幽霊、ふたたび』, V.S.ラマチャンドラン
「言語」,wikipedia
‘A Linguistic Big Bang’ , New York Times
‘The Birth of Language’,? Radium Software
『声の文化と文字の文化』,W.J.オング

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See-D Innovation Workshop

途上国に向けた製品開発ワークショップのご案内です。 日本ではまだまだ理解が浅い、途上国向けのものづくりですが、数回のワークショップからプロセスを体系的に学ぶことができるようです。

===See-D Innovation Workshop募集要項===

See-D Contestは、日本の技術力と途上国のニーズをつなげ、日本のエンジニア・デザイナーと途上国ユーザーが一体となって製品開発を行うプロセスの実現を目指して立ち上げられました。
コンテストに先立ち、途上国向けものづくりのプロセスを手助けするワークショップシリーズ:See-D Innovation Workshopを開催いたします。
ワークショップの運営にあたっては、適正技術教育の先駆者として学生主導で数々の途上国向け製品を開発してきたマサチューセッツ工科 大学のD-Lab及び人間中心デザインの手法を使ったイノベーション教育を手がける東京大学i.schoolの協力を得て 行うことになっています。また、非電化村落のモデル地域として、東ティモールを選び、非電化村落の生活を実地で観察できるフィールド 調査を合わせて開催します。
途上国に対する知識がない方でも、ワークショップ参加を通じて、アイディアが具現化できるプロセスとなっていますので、途上国ユー ザー向け製品企画・開発に関心をお持ちのエンジニア、デザイナー、商品企画の方々の幅広い参加をお待ちしております。

詳しくはWebページをご覧ください。
http://see-d.jp/
応募はこちらから:
http://see-d.jp/oubo.html

また、下記の日程で、参加者募集の説明会を開催いたします。See-D Contest及びInnovation Workshopへ
の参加に少しでも興味のある方はお気軽にご参加ください。なお、事前の登録等の必要はございません。
第1回説明会: 7 月18日 14-16時 東京大学本郷キャンパス工学部9号館1階大会議室
※アクセスはこちら:  http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_04_10_j.html
第2回説明会: 7月25日? 19-21時 東京大学本郷キャンパス・校舎未定
(7月15日迄にhttp://see-d.jp/に て場所を掲載)

なお、参加申し込みに関する質問はいつでもinfo[at]see-d.jpにて受け付けております。

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フィジカルコンピューティング ラボラトリー

Prototyping Labの出版記念イベントのご案内です。

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■開催概要

Web制作の学校 ロクナナワークショップのセミナーイベント
フィジカルコンピューティング ラボラトリー
Prototyping Lab 「作りながら考える」ためのArduino実践レシピ 出版記念

詳細はhttp://event.67.org/physical/

概要
日時:7月16日(金)17:00 – 20:30(開場16:30)
定員:120名
出演:小林茂氏、阿部淳也氏、野村政行氏
料金:2,900円(書籍なし・税込み)6,100円(書籍 付きチケット・税込み)
会場:東京・六本木「AXIS Gallery」
Twitterハッシュタグ:#lab67

主催・お問い合わせ
株式会社ロクナナ・ロクナナワークショップ
〒150-0001東京都渋谷区神宮前1-1-12 #203
イベント運営事務局 担当:佐々木・上田
E-mail:workshop@67.org
Phone:03-3408-4605

Session2で予定されている「ものづくりへの取り組みと開発裏話!」このあたりのお話は是非、お聞きしたいですね。楽しみ!

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Nature as Muse

生体や生態系から学ぶデザインアプローチ。自然を模したものに心を打たれやすいのは人間の性質なのでしょうか…

同僚に教えてもらった、Berkeleyでの取組みの紹介。後半(8分25秒くらい)のロボットが面白い。※虫が苦手な人は注意が必要。

FESTO社のR&Dプロジェクト。

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Prototyping Lab

IAMAS? 小林茂氏の『Prototyping Lab――「作りながら考える」ためのArduino実践レシピに、前回MTM04で展示した「LOGER」を掲載して頂きました。ありがとうございました!

『Prototyping Lab を手にしてみると、なんと『Making Things Talk』よりも厚い大著でした。Cookbookが本当に充実していて、レファレンスとしてだけでなく、アイディアを導くヒントとして活躍しそうです。それから、手にされたら「あとがき」も読まれることをおすすめします。なんというか、新しい時代の息吹のようなものを感じ取れるのではないかと思います。

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FabLab Japan

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MITメディアラボのニール・ガーシェンフェルド教授が提唱している「ファブラボ」を日本でも立ち上げようという動きが始まっています。

そのFabLab Japanのキックオフ・イベントが、次の日曜日Make:Tokyo Meeting 05で開催されます。

Kick Off Event「FabLab Japanって何?」
2010年5月23日 ( 日 ) 15:00 ~
@MTM05 体育館中央付近「 多摩美ハッカースペース」ブース

MTMに行かれる方は是非立ち寄ってみて下さい。これは楽しみ!

その他、FabLab Japanに関する情報は下記から。
Twitter: @FabLabJapan
http://fablabjapan.org/

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「コンヴィヴィアリティのための道具」

イヴァン・イリイチ(Ivan Illich 1926-2002)の「コンヴィヴィアリティのための道具」(1973)は、1970年代当時の産業主義を批判した重要な論考だ。私自身は、大量生産を行ってきた先進国の次の世界観、途上国の今後の世界観、それらとオープンソースハードウェア/パーソナルファブリケーションの可能性を結ぶ論考として重要性を感じている。論考が非常に難解であることから理解が間違っている可能性は残るものの、印象に残った部分をまとめてみよう。

※「コンヴィヴィアリティのための道具」の要約はこちら(http://www.syugo.com/3rd/germinal/review/0042.html)にあります。このエントリを書く上でも参考にさせて頂きました。

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コンヴィヴィアリティとは

少し長いが、まずはコンヴィヴィアルという概念について。

人々は物を手に入れる必要があるだけではない。彼らは何よりも、暮らしを可能にしてくれる物を作り出す自由、それに自分の好みにしたがって形を与える自由、他人をかまったりせわしたりするのにそれを用いる自由を必要とするのだ。富める国々の囚人はしばしば、彼らの家族よりも多くの品物やサービスが利用できるが、品物がどのように作られるかということに発言権をもたないし、その品物をどうするかということも決められない。彼らの刑罰は、私のいわゆる自立共生(コンヴィヴィアリティ)を剥奪されていることに存する。彼らは単なる消費者の地位に降格されているのだ。
産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私は自立共生(コンヴィヴィアリティ)という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味をもたせようと思う。私は自立共生とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。私の信じるところでは、いかなる社会においても、自立共生(コンヴィヴィアリティ)が一定の水準以下に落ち込むにつれて、産業主義的生産性はどんなに増大しても、自身が社会成員間に生みだす欲求を有効にみたすことができなくなる。

コンヴィヴィアリティとは、人と人、あるいは人と環境と交わる際の「相互依存のうちに実現された個的自由」を指している。そして、論考のタイトルにある道具とは、いわゆる手に取れるハンマーのようなものだけでなく、機械や生産設備、義務教育等、「合理的に考案された工夫すべて」を指している。ここでの道具は、広義の「デザイン」という言葉に近い。そしてこの論考では、コンヴィヴィアルな社会の実現に向け、道具の効率性(=合理的に考案された工夫)に対して課せられるべき限界を明らにし、人々が創造的に生きることが可能な道具のあり方の探索が行われいる。

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産業化の弊害

人々は生まれながらにして、治療したり、慰めたり、移動したり、学んだり、自分の家を建てたり、死者を葬ったりする能力をもっている。この能力のおのおのが、それぞれひとつの必要(ニーズ)をみたすようにできているのだ。人々が商品には最小限頼るだけで、主として自分でできることに頼るかぎり、そういう必要(ニーズ)をみたすための手段はあり余るほどある。こういう諸活動は、交換価値を与えられたことはかつてなかったけれど、使用価値をもっている。人間が自由にそういう活動をすることは、労働とはみなされない。

産業化が進むにつれて、交換価値をもつ諸活動は専門性を高め制度化され、交換価値を持つものだけが「労働」とされた。その結果、例えば医療では、医師という専門職により医療手段が独占された。さらに、医師の訓練期間が長期化することにより、医療サービスの希少性が高まり社会成員の医師への依存、という構造ができあがる(以前は、呪医、民間医が効果的な処置を行っていた)。進歩は依存の増大ではなく、自己管理能力の増大を意味するはずであるのに、医療の対象拡大と公に保証された品質への過剰信頼から、人が本来持っているはずの治療者となる能力は不能化する。さらに、自分の体にも関わらず主体性を失い、人々がその管理に関して無関心・無責任となり、全面的に医師任せの思考停止した状態、文化的医原病が発生する。

このような問題は医療に限ったことではない。冒頭のコンヴィヴィアリティに関する引用にあるとおり、「富める国々の囚人はしばしば、彼らの家族よりも多くの品物やサービスが利用できるが、品物がどのように作られるかということに発言権をもたない」、自らの必要性に従ってものをつくり、生活環境に主体的に関わるということは希薄化してしまった。生活を良くするということはどれだけよい商品を購入し所有するかということとほとんど等価で、「何を買うか」が重要な関心事なのだ。医原病のような無関心にくらべれば、現在では生産に関する消費者意識は高まっているが、生産者と消費者という構図は根強く、生活のために「ものを作る能力」が活用される場面は非常に限定的であるし、生活は「生産者」によって限界づけられている。

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誰でも生産者の時代?

とは言え、それではみんな生産者になればよいのかというと、そうではないはずだ。生産の自由が極大化した社会に関しては、「誰もが生産者になれる訳ではなく大きな格差を生む、あるいは生産してよいものに関する倫理的な問題を孕む」という話もある(「広告」2010年4月号 特集「生産する生活者」)。私自身も自分でものを作る経験はまだまだ乏しく、自分の生活に必要なものを全てを作ろうとも考えていない。誰もが生産者になる、必要なものを全て自分で作るということは理想的である一方で、理想でしかないとも言える。考えなければならないのは、現在の「生産者」任せの依存した限界的な状況を改善するということで、これは、現在の大量生産型の閉じられた生産様式だけでなく、開かれた複数の生産様式を持つことが鍵と成り得るということだ。

イリイチは、コンヴィヴィアルな社会の実現に向けた指針の1つに「科学の非神話化(=身体から外在化し権威を持った知への思考停止の回避)」を掲げている。「世界についての情報は、有機体が世界との相互交渉を通じて、有機体のなかにつくりだされるものだ」とし、自ら学ぶという行為を取り戻す必要性を説いている。

人々は自分が教えこまれたことは知っているが、自分のすることからはほとんど学ばない。

「自分でつくる」ということは自ら学ぶ機会で、出来たものにオリジナリティが無いとしても、ものの裏側の技術の理解や、創意の過程を追体験する重要なプロセスでもある。オープンソースハードウェアは個人やコミュニティがアクセス可能な技術を提供し、生活から隔離され隠蔽された技術を再び日常へと取り戻す、開かれた学びの機会である。こうした機会は先進国でも途上国でも重要な意味を持つ。先進国ではものを作るということへの無関心を改め現在の消費と生産を連続させ可能性として、途上国ではものを生みだす機会として。(もちろん、オープンソースハードウェアやパーソナルファブリケーションにはこの他にも様々な可能性が見いだせる)

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tinkering

オープンソースハードウェアのArduinoには哲学があり、その流儀のひとつにtinkeringがある。

tinkeringとは、あなたが好奇心、空想、奇想に導かれて、やり方の分からない事柄に挑戦することです。tinkeringに説明書はありません。正しいやり方や間違ったやり方はなく、失敗もありません。それは、物の仕組みを理解することと手を加えて作り直すことに関係しています。複数の機械、珍しい仕掛け、不揃いな物体が調和しながら機能することがtinkeringの真髄であり、その基本は遊びと調べごとを結びつけるプロセスといえます。–www.exploratorium.edu/tinkering
「Arduinoをはじめよう」より)

tinkeringこそが自ら学ぶということに他ならない。

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